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「灞陵行送別」李白

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気が付けば12月。中国では旧暦でお正月を祝うので、それほど年末の慌ただしさはありません。でも、日本人の私には体内時計があるのか、12月と聞くだけでなんだか慌ただしい気持ちになります。一人一人が1年を締め括り、今年を古い年として、来年という新しい年を迎える準備をする時期です。12月は1年に別れを告げるだけでなく、友人知人の送別会も多くあります。自分自身が北京に暮らす時間が長くなればなるほど、友人知人も増えていきます。でも北京で暮らす日本人は、ほとんどの人が定住ではなく駐在や留学なので、日本にいた時よりも送別会が多いように感じています。3年、4年と付き合いが深まったころに帰国や移動の知らせ。春のうららかな時期よりも、厳しい冬の別れの方がより寂しさが増すようです。では、今日は送別の詩、李白の「灞陵行送別」を紹介します。

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作者、李白は盛唐の詩人。杜甫と並ぶ中国を代表する詩人で日本でもよく知られていますね。この時代の詩人、文人は役人だった人がほとんどですが、李白は違います。今日紹介した詩は、彼が40歳代前半に都長安に居た時に作られたものです。都にいたと言っても、官職についていた訳ではなく、いわゆる「宮廷詩人」としての身分でした。それでもやはり李白は、役人になりたかったのでしょう。この身分には満足はしていなかったようです。この時期の詩には「酒」を詠ったものが多く、飲み友達も多く飲中八仙などと呼ばれていました。灞水は、長安の東を流れる川の名前。終南山に源を発し北に流れ渭水に合流し、そして最後には黄河に合流します。この川は東に向かう人との別れの場だったと言います。紫闕は天子の住む宮殿のことで、ここでは都長安の宮殿を指しています。この詩は最後に断腸の思いでここに立つ。別れの歌を聞くに忍びないという言葉で締めくくられています。30歳代の頃に武漢で孟浩然を送った送別の詩に比べて、私には李白の心の動きがあまり伝わって来ません。年齢を経て別れに対する気持ちが落ち着いたのでしょうか、それとも宮廷詩人という立場が影響しているのでしょうか。